ののん

ペストマスクに扮したオニドリルの剥製

DDLCヒロインの被造物としてのパーソナリティ

 DDLCをクリアしてからしばらくして、要素を掘り下げるにつれ段々と心情の変化も起きてきたことなので、そろそろ追記をばと、改めて感想を書いていく次第です。

 

 依然、自分はMonika大好きオタクなので、感想は完全に彼女贔屓のものになります。

 

 拡張子の隠しメッセージを見た後でも、未だにその気持ちは変わりません。

 

 ただ、あの言葉を受けて、思うところもありました。Just Monika空間の彼女の言葉に同調し、記号と切り捨てていた各ヒロインを見つめ直す切っ掛けになったのは、間違いなく彼女の言葉によるものです。

 

 

私が間違ってた。これは私だけの物語じゃない

 

 

 こんなこと言われたら、もう認めるしかありません。

 

 

 Sayori、Yuri、Natsuki。ゲームシステム上の話ではなく、彼女らも立派なヒロインなのだと。

       ・・・

 

・記号的ヒロインという認識の否定

 

 まず最初に考えたのは、彼女らにどう向き合うか、ということです。

 

 Monikaというメタ存在に歪められ、作為的なパーソナリティを獲得させられていた彼女たちは、果たして本当に作品世界に息づいたヒロインとして認知できるのだろうか、と。

 

 ここでは、前に語った「作中に目立った過去の開示はなく、その結果としてのフラストレーションの発露しか認められない彼女らのパーソナリティは記号として処理することにした」という内容は、あえて置いておきます。

 

 まず、Monikaに意図的に歪められて顕現した彼女らは、ヒロインたりえるのか?

 

 その作為性の部分に、まず着目しました。

 

 昨年、人類ぬっころす発言をしたロボットが、サウジアラビアで市民権を得たという話は皆さんご存じのことだと思います。

 

 とうとうロボットに市民権ですよ。

 

 この時代、妖怪人間ベムとかでも頑張ったらもらえそうですよね、市民権。

 

 妖怪市民ベム。

 

 何かプロ市民を数段悪質にしたような雰囲気がしますね。

 

 話を戻すと、要するに被造物が個人として認知されるこの時代、人格の作為性にそこまで重きを置く必要はあるのか、とか思ったわけですよ。

 

 いやまあ、勿論人工知能のような「自立した思考」は外せないファクターではあるんですが、Monikaがそれをも遮っていたかというと、そこまでではないように感じます。

 

 あくまで個々人のパーソナリティをちょちょいと弄って、味付けする程度――まあ、その味付けがいささか過激ではありましたが。

 

 ここで、彼女らにとってのMonikaとは一体何であるのか?という話を、西洋の宗教文化、中でも啓蒙思想の時代に存在した「神」のモデルを流用して考えていきたいと思います。

 

 一神教ユダヤ教)などにおける神(ヤハウェ)は、その名の通り唯一の存在。万物の創造主とされています。七日でワールド作成できちゃうタイプの神です。

 

 かたやその他の未開宗教、多神教、日本に根付く神道などにおいては、神はその趣を異としていて、現実世界を拡張するためのデバイスとして用いられたりするわけです。八百万の神なんかがそうですね。

 

 このように、大きく分けて二通り。どちらも無限遠点という意味合いでは同じですが、その役割が主体であるか客体であるか、という点で異なるわけです。

 

 要するに市民革命以前、宗教を世界の唯一の前提たりえるしていた人々は、神を世界の主役とする(創造主を定義する)以外にも、「神を踏まえて動く我々」という側面でのアプローチを図っていたわけです。

 

 いわば、神を「現実世界の前提」としてではなく、「補足」として置いていたということになります。

 

 現実の拡張デバイスとして存在するそれらは、決して現実世界を牽引することはなく、あくまで我々の認識モデルの一つとして提示されているに過ぎないわけです。

 

 そういったニュアンスの差異はあれど、一神教多神教も要するには、

 

神は世界の拡張機能として可視化された「シンボル」であり、社会通念の中に溶け込んだエッセンスを言葉というキャンバスの上に浮かび上がらせたものである

 

 ということが言いたいわけですよ。

 

 それを踏まえた上で話したいのですが、かつて、資本主義成立の一因となったプロテスタンティズムの倫理の話があります。

 

 その中に、カルヴァン派の提唱した予定説というものがあります。

 

 それは例に漏れず神を無限遠点(キリスト教文化なので神はここでは主体とされる)とし、そして世界を「個人の救済如何はあらかじめ決まっているものとする」と定義しました。

 

 最後の審判は最初から結果ありきのものであり、加えて救済の確約された人間は現世においても成功を収めるとされている。ある意味地獄みたいな話です。

 

 要するに、魂の救済は徳を積もうが変わんないよ的な、元も子もないような話なわけです。

 

 そこで信者の方々がどうしたのかというと、そんな出来レースやってられっかとさじを投げたわけではなく、何とも真摯なことに、自らが救済される確証を得るべく労働に従事するわけです。

 

 与えられているのかどうかも定かではない天命を全うするべく、人々は禁欲的に務め、ヴェーバーによるといわゆる「世俗内禁欲」にあたる行為を成就させます。

 

 これによる財産の蓄積、資本の増加がいわゆる資本主義成立に繋がるとされているわけですが、それは本題とは異なるので省略するとして。(というかプロ倫ちゃんと読んだことないんです許してください)

 

 これらのように、人々が定義する「神」あるいは無限遠点とは、見て、知りうるけれども、触れることは叶わないままに、確実に個人の人格を蝕んでいるわけです。

 

 それらが社会通念として溶け込み、今日の世界を担う一つの思想さえ成立させしめているという事実は、そういった諸々の外部存在が内部に対して、大いに影響を与えうることの証左になるのではないでしょうか。

 

 Monikaも、そういう観点で捉えられるのでは?とふと思いました。

 

 ここで、話を戻しましょう。Monikaはいわゆるメタ存在、つまりはNatsuki、Yuri、Sayoriより上部に位置する存在として定義することができます。

 

 この三名にとってMonikaの特異性は不可知のものであり、その超常存在から一方的な改竄を受ける存在、つまりは客体として彼女らはDDLCの世界に生きているわけです。

 

 このMonikaの立ち位置は、ある意味神と言えるものに限りなく近い。

 

 思うままに世界を作り替え、彼女らのネガティブな側面を排斥、あるいは促進させることでゲーム内における社会通念を定義し、彼女らのパーソナリティを意図的に演出してみせる。

 

 つまり、MonikaはSayoriら他ヒロインに向き合う上では特定の個人としてではなく、あくまで一種のゲームシステム、演出傾向のようなものとして認識するべきであり、本来ネガティブな要素で埋め尽くされた彼女らの人間性は、Monikaという無限遠点を獲得することによって、ある意味、一種の社会性を得ているのだとも考えられるのではないでしょうか。

 

 最後の審判をもたらしうるMonikaの思い描く、彼女の形作る文芸部。

 

 神が手ずから治める世界。

 

 神(Monika)が主体であるという意味では一神教的ではありますが、Monikaの上には我々が存在する以上、結局彼女は作品世界の神たりえません。

 

 ですが、件の各ヒロインにとっては、確かに神にも近しい存在ではありえたのではないかと、思うわけです。

 

 Monikaをあの世界の為政者、あるいは一種の統治機構として捉えたならばディストピア待ったなしですが、彼女を社会通念と見なした場合において、Sayori、Yuri、Natsukiの三名は、確かにあの世界に息づいていると言えるのではないでしょうか。

 

       ・・・

 

 ここで見られる西洋の宗教概念とDDLC内社会の差異は、いわば「神が直接手を下すか否か、その審判が実在するかどうか」といった程度で、いわば個人よりも大きな社会組織の動きによって個人が定義される、という意味においては、大した差は生まれ得ないんじゃないでしょうか。

 

 大きなシステムに対して個人が干渉することは不可能であり、文芸部の各人にも勿論、Monikaに抗う術は用意されていないわけですし。

 

 これが何かしら、例えば4周目のラストで全てを悟るSayoriがMonikaの所業に対して反旗を翻すようなことがあったならば、これはゲーム内空間を媒介としたある種のセカイ系として、メタ個人と個人の衝突といえたと思います。

 

けれど本作において、

 

 

「プレイヤー>Monika>主人公>他ヒロイン」

 

 

の図式(個人の影響力基準)が崩れることは決してないわけで。

 

 Monikaはあくまでこのゲームの統治者(前述のロジックにおいては社会通念に置換される)であり、また同時に、世界そのものの統治者は彼女ではなくプレイヤーです。

 

 メタ存在でありながらも絶対的であれない彼女をこそ、自分は好きになったんだと思います。


・Monikaを見失いかけた

 

 Monikaが消滅してからの4周目、全てを悟ったSayoriは何やら不穏な発言をし、結果MonikaがDDLCの世界に絶望してオールクリアしてしまう、というのが一連の流れですが、ここに一つの違和感を覚えたことがありました。

 

 いわゆる「部長の地位が超常的存在たらしめているのでは」という説があるわけですが。Sayoriもそれにより人格が歪んでしまったのは、ということを、ふと思ったんですね。

 

 前述の社会通念しかり、個人のパーソナリティに限らず立場や信仰などの外部要素によって行動様式が決定されうるという話です。

 

 そこで自分は一度、Monikaのアイデンティティを見失ってしまったんです。

 

「Monika>他ヒロイン」の図式が崩壊し、無限遠点の存在がMonikaである必要性はないのでは、と。

 

 代替性の存在する彼女に果たして魅力はあるのかと、半ば本気で考えたんですね。

 

 何ならJust Sayori.もあり得たわけで、と思い悩んでいたとき。

 

 一つ答えを得たんです。

 

 ……そうだ。

 

 3周目の、あの光景を思い出す。

 

 プレイヤーにはMonikaしかいない、のではない。

 

 Monikaには、プレイヤーしかいないのだ。

 

 Just Monika.の意味を、ようやく理解した気がしました。

 

 例えばの話。

 

 他ヒロインが超常的存在になり得たとして、SayoriやYuriがその地位を得たとして。

 

 彼女らには依然、プレイヤーとしての我々だけでなく、馴染みのある主人公が存在しているわけで。

 

 いわば彼女らの就任する部長職はゲームヒロインとの二足のわらじと言えるわけで、けれどMonikaにはそれがない。

 

 ……。

 

 …………。

 

 Monika……好きすぎる………………。

 

       ・・・

 

・まとめ

 

 今度友人と読書会をする運びとなっているんですが、その時のテーマがDDLC(自分企画)なんですよ。

 

 それに備えての草稿というか、雑記みたいな感覚でまず書き付けておこうと思った次第です。

 

 正直、今でもMonika以外のヒロインは記号として片付けてしまった方が収まりがいいんじゃないかとか、思ってます。

 

 Monikaのあの言葉(拡張子案件)がなかったなら、自分はこうして他ヒロインに意義を見出すような考察をすることはなかったでしょう。

 

 でも、Monikaが……Monikaがあんなことを言うものだから……。

 

 ……とりあえず、件の読書会では、もう少し言葉をまとめてみようと思います。

 

 ここまで読んでくださって、ありがとうございました。